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写真とパピオン大好き2
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さいたま市内の7月です。
見沼区の氷川女体神社周辺。
見沼区大谷。このあたりは大地主が残っています。これらの写真は大きな農家の前庭です。このあたりは山林地主が多かったので、第2次世界大戦の敗戦後のマッカーサー令による農地解放から山林が外された結果、山林を沢山持っていた大地主が残ったのでしょうか!農地解放では水田地主は完全に没落しましたが山林地主はほとんど残りました。農地解放は地域によっては農地以外の土地も接収した場合もあり、敗戦の混乱でかなり無理なマカーサー令の解釈があったようです。戦前は我が家は家族の食べるお米は埼玉県で一番美味しいと言われていた吉見町の田圃で採れるお米を食べていたそうです。戦後の農地解放でその土地は取られてしまったのですが、その後20年近く毎年今年の収穫は米何俵、柿何石と律儀に報告してくれる人がいました。
7月22日の花之江の郷の3回目です。
蝉の抜け殻がヤブミョウガにくっ付いていました。
源氏物語の空蝉の帖から
空蝉の
羽におく露の
木がくれて
しのびしのびに
ぬるる袖かな
(意)蝉の抜け殻のような薄衣だけを残して姿を隠してしまいましたが人目を忍んで袖を濡らしています。
これは空蝉が義理の娘「軒端荻(のきばのおぎ)」と部屋で寝ていると突然光源氏が部屋に入って来た(夜這い)ので、空蝉は薄衣を残して部屋を逃げ出した。光源氏は暗闇の中で軒端荻を空蝉と思って抱いてみたが・・・違うことに気付くがもう止まらない!そのまま抱いて契ってしまう。翌朝、光源氏は軒端荻のもとから帰る時に空蝉の脱ぎ捨てた薄衣(蝉の抜け殻)を持って帰り、光源氏は空蝉に文を出す(空蝉の身をかへてける木のもとになほひとがらのなつかしきかな)。それを読んで空蝉は文の端に書き付けた歌が上の歌です。光源氏は何か良く分らない男ですね。男の理想形とも言えますが!この時に前夜抱いた軒端荻には後朝の歌を贈っていないようです。そもそも昔は・・・男「今夜行くよ!」女「今夜誰も来ないから空いているから良いよ!」・・・の世界だと思っていましたが夜這いとはね!
E-510
7月26日の北鎌倉東慶寺です。花が少なくて少しさびしいですが、緑が綺麗でした。東慶寺は駆け込み寺とも縁切り寺とも言われ、江戸時代は女性から離婚の申し立ての出来る二寺院のうちの一つでした。昔は尼寺でしたが現在は尼寺ではありません。
古代の鎌倉は良く分かっていません。創建を奈良時代とされる杉本寺・長谷寺や甘縄神明社は存在します。奈良時代は三浦半島から房総半島へ抜ける古代の東海道(陸上海上)の通り道だったようです。源頼朝が伊豆の旗揚げに失敗して房総半島に逃れ千葉氏や上総氏を頼った時に通った道でしょう。
鎌倉は鎌倉時代から室町時代にかけて騒乱の多い土地でした。鎌倉時代の大きな騒乱を上げると・・・・。
1203年 比企の乱で比企一族が北条氏に滅ぼされた。
1205年 畠山重忠・重保親子の謀殺。
1213年 和田合戦で和田一族が北条一族に滅ぼされた。
1247年 宝治合戦で三浦一族が北条一族に滅ぼされた。
1285年 霜月騒動で得宗家(北条氏嫡流)・北条時宗の御内人(直属家臣)平頼綱と御家人筆頭の安達氏の争いで安達氏は滅ぼされる。騒動後500名余りが平頼綱の粛清で殺された。この騒乱で平頼綱が幕府の実権を握る。
1293年 平禅門の乱で平頼綱一族が滅ぼされる。
とにかく、鎌倉の歴史は謀略と殺し合いの連続です。狭い土地での殺し合いですので負ければ皆殺しですね。大きな騒乱以外に小さなのは沢山あったでしょうから、油断できない毎日だったでしょうね。
7月26日に北鎌倉へ久しぶりに行ってきました。最初の予定では北鎌倉から亀ヶ谷坂切通しを抜けて海蔵寺へ回る予定でしたが、あまりの蒸し暑さで北鎌倉の円覚寺~東慶寺~浄智寺~明月院で帰ってきました。いや~、暑かったです!蒸し暑さの中で無理は禁物です。
北鎌倉は外国の人が圧倒的に多かったです。最近、都内でも外国人の観光客が増えていますね!日本政府の観光客勧誘策が効果を上げているのでしょうか!
北鎌倉は全体的に花の数が少ない季節ですが、緑が綺麗です。特に円覚寺は鎌倉五山の第2位ですので、境内の敷地が広く周りの山々の緑と境内の緑が綺麗でした。
今回、鎌倉の山を見ていてフト思ったのですが、源義経が一の谷戦いで鵯越の逆落としで平家を後方から攻撃したのは鎌倉武士達が鎌倉の厳しい地形を馬で走り回っていたので急斜面や谷に慣れていたためではないかと思いました。義経の鵯越の逆落としは実際は無かったとする学説がありますが・・・・!鎌倉は地形が非常に険しい場所で現在の切り通しも歩いて通るのにはかなり体力がいる道です。昔は道の整備を軍事上の戦術としてワザとしなかったようですので、7つの切通し(七つ口)はそれぞれ厳しい道だったと思われます。京都は昔から守るのが難しいと言われていましたが、鎌倉は軍事都市として守りを主眼にした街造りをしてきました。谷が深く平らな場所が少ない独特の地形です。京都のように広い境内を持つ寺院は鎌倉にはほとんど存在しません。狭い土地に御家人達がそれぞれ屋敷を持ち、沢山の寺院や神社がありました。
13世紀中頃には御家人の数は全国で約480名で関東は数が特に多く武蔵国は最多の約80名でした。お互いに狭い鎌倉の中で殺し合ったりして数は上下したようです。鎌倉幕府と御家人の関係は本領安堵と引換えに御恩と奉仕を義務付けられました。御恩とは幕府への忠誠で、奉仕は京都や鎌倉等への大番役です。京都大番役とは京都の守護で鎌倉大番役とは鎌倉の守護でした。有力御家人も弱小御家人も身分上は同格でした。御家人同士の支配関係や隷属関係は固く禁じられていました。また京都の朝廷と直接の主従関係も厳禁でした。
非御家人も鎌倉時代は多数存在していましたが、蒙古襲来のとき鎌倉幕府に非御家人への指揮権を認められました。しかし幕府の命令に従わない非御家人も多くいました。彼らは悪党と呼ばれましたが、現代の悪党とは意味が違い「強い」との意味で自主独立主義者とも言えると思います。鎌倉幕府を倒すために最初に立ち上がったのは西国の悪党達です。楠正成は悪党の代表選手でしょうね。
その後、室町幕府は御家人制度を執らなかったので御家人は将軍家の直参の家来をさしました。
7月20日の武蔵丘陵森林公園の第3回目です。とにかくここは広すぎます。入り口も南口・中央口・西口・北口と4ヶ所あります。それぞれの入り口には公営の駐車場がありますが、公営の駐車場の前に民営の駐車場があり、民営の駐車場の方が駐車料金が圧倒的に安いです。園内にはサイクリング専用コースがあり1周は約17Kmです。それぞれの入り口のそばのサイクリングセンターでレンタサイクルを貸し出してくれます。また園内にはバスも走っていてフリーパスは400円です。ドックランも園内に併設されていて北口からが近いです。昔は何もなく広い広場が沢山あるだけでしたが最近は非常に整備され早春の花から晩秋の紅葉まで何か写真のネタがあるところです。私は個人的には早春の蝋梅と梅の季節が好きです。園内は山あり谷あり川あり滝あり沼ありです。また、古墳群も点在し山田城址も園内にあります。また鎌倉街道も保存されています。特に昭和天皇の墓所の候補になった頃から予算がつくようになり、一気に整備が進みました。
7月22日は最初に栃木県栃木市の「星野の里」へ行き、それから都賀町の「花之江の郷」から栃木市の下野国国衙跡と大神神社の古代から有名な歌枕「室(むろ)の八島」のあたりへ行ってきました。今日は星野の里です。ヤマユリは一輪だけ蕾を見かけました。今年はダメなようですね。霧雨が時々降ってくる天気でしたが、緑が美しい里です。節分草の自生地として、またカタクリの花でも有名です。今の季節は人も少なくゆったりと時間が流れるような里山です。星野の里の山の入り口にあるお休みどころの御蕎麦は美味しいですよ。そこまでの道が細くて車が1台しか通れないので御注意を!山の入り口でワンちゃんが門番をしていました。
私は写真を撮るとき綺麗な花を撮る時は精神的にハイになって撮ります。気分で花に近づくのですね。ただし実際に写真を撮る時は一歩下がって撮ります。近づき過ぎると何の花だか分らなくなりますし、脳圧が一気に上がってフラフラしてしまいます。ただしコンテストで賞を取るには近づいた方が確率が良いようです。今日のような綺麗な緑を撮る時は気分は少し引いて撮ります。つまり落ち着いて雰囲気を撮るのですね。訳がわからない話になりました!
K10Dでの画像です。
E-510の画像です。
最後から2枚目の大木は「かつら」の木です。かつらは紅葉が非常に綺麗な木です。紅葉の時は見事でしょうね!木の上の方がモヤがかかっていました。
7月22日に栃木県都賀町の花之江の郷へ行って来ました。今年は大賀蓮が一度咲き終わりましたが、再び2回目の開花が始まりました。蓮の花が1年に2度咲くのは非常に珍しいことです。花の数は少なく花の形も少し小型ですが素晴らしい色でした。今回は久しぶりにペンタックスのK10DをオリンパスのE-510と一緒に持ち出しました。花之江の郷の大賀蓮と水辺の風景です。
良寛と貞心尼の相聞歌から
来てみれば
人こそ見えぬ
庵守(いほも)りて
にほふ蓮(はちす)の
花のたふとさ (貞心尼)
返し
みあへする
物こそなけれ
小瓶(をがめ)なる
蓮(はちす)の花を
見つつしのはせ (良寛)
(意)来てみるとお姿は見えず庵の留守をして咲き匂う蓮の花の尊いこと。(貞心尼)
特におもてなしをするものはありませんが、せめて小瓶の蓮の花でも見て我慢をしてください。(良寛)
良寛と貞心尼は40歳の年の差があり、二人が知り合ったのは良寛が70歳貞心尼30歳の時でした。恋人として和歌の師弟としてまた仏法の師弟として良寛が死ぬまでの約3年半のあいだ関係が続きました。私はこの二人の間には不純なものを感じられません。なにかほのぼのとした大人の愛の美しさを感じるのです。
良寛の故郷柏崎市出雲崎は今度の中越沖地震で大被害を受けました。一刻も早い復興がなされますように!
ペンタックスK10D+シグマ18-200mm
オリンパスE-510+50-200mm
7月20日の埼玉県滑川町の国営武蔵丘陵森林公園の2回目です。前回はヤマユリでしたが、今回はそれ以外の野草をアップします。とにかく広い公園です。20日も公園の1/3ほどしか回れませんでした。公園内は山あり谷あり川ありで起伏にとんだ武蔵野の面影をよく残しています。このあたりは源平時代から鎌倉時代までの地付きの豪族・武蔵七党たちの故郷とも言える地域です。京都から武蔵野国の高級役人として下って来た大豪族の源氏・平氏(家)・藤原氏と混在していました。関東では圧倒的に坂東八平氏と言われるように平氏が圧倒的に多く、特に武蔵野国では秩父氏(平氏)の畠山氏が大勢力でした。鎌倉幕府を開いた源頼朝は平氏の関東の大豪族達を味方につけたことによって全国を平定できました。
三枚目の写真は(古)鎌倉街道です。鎌倉街道は鎌倉時代に整備された軍用道路で比企丘陵地域は割合に良く残っています。鎌倉街道は鎌倉を中心に3本(上道<かみつみち>・中道<なかつみち>・下道<しもつみち>)の幹線道路があり、それぞれに枝道・脇道が多数あり今では良く分らない道も多いのです。鎌倉街道は規格道路で道路幅約6メートル、左右それぞれに高さ2メートルで上辺2メートルの土塁が付いていました。実際はそれよりも小さかったと思われます。土塁は軍兵の動きを隠すためとも、横合いから襲われないためとも言われています。作ったのはそれぞれの土地の御家人たちだと言われていますがよく分りません。いまはこの道路は風化しています。昔の大和朝廷の作った古道<東山道武蔵路>とも関係していているようです。大和時代の古道は鎌倉街道の2倍の道路幅があった事が発掘調査で判明しました。鎌倉街道は江戸初期の五街道の整備までは関東から長野・新潟あるいは茨城までの最重要街道でしたが、江戸時代以降は五街道に道を譲りました。しかし幕末までは一般に使われていたと思われます。この公園の中の鎌倉街道は上道の枝道です。上道は新田義貞の鎌倉攻めのルートです。我が家のご先祖様も新田義貞の四天王の一人として居城の上里町の金窪城を出て鎌倉街道を南下して鎌倉へ攻め込んだのでしょう。鎌倉時代から戦国時代までの関東の合戦はほとんどがこの鎌倉街道沿いで起きました。
上道の所沢から分岐して富士見・浦和・大宮・上尾・白岡・加須から中道(奥州街道)へつながる羽根倉道は現在も浦和の荒川に架かる橋「羽根倉橋」として名前が残っています。
今年は紅葉が早いかもしれません。病気かとも思いましたが、それにしては黄変等をしている木々が多かったです。
少し古いですが、ここに面白い記事があります。沖縄県知事選挙について期日前投票の疑問点についてで、当時かなり騒がれ色々な方が選挙への疑問を口にされました。沖縄県知事選挙直前に沖縄県の成人の人口が急激に増え、しかもその後急激に減っている疑問です。しかし解明されることは不可能でいつの間にかにうやむやになってしまいました。今回も同じことが起きなければいいのですが。組織だって行われる不正は民主主義の危機です。この話は公明党の目黒区議の公費流用で出てきた領収書のなかに疑問を裏打ちするような話が出てきてしまい再び表面化してしまいました。これも慌てて公明党の目黒区議全員辞職でウヤムヤにされました。数十年前に国会でこのことは取り上げられて大問題になり選挙制度の投票権の取得の変更までしたのですが・・・・・。
http://alcyone.seesaa.net/article/28967340.html
制度を作ってもその制度を悪用する人達が出てくるのです。政治資金規正法や選挙制度などは国会議員が立法するのではなく別な方法で公平な立場の人達の手で立法すべきでしょう。泥棒が泥棒を取り締まる法律を作るのと同じ事です。献金は本質的に99.9%賄賂です。自分のメリットになるから献金するのです。賄賂を自分達の都合で賄賂ではないと決めるのが国会なのでしょうか!日本人は忘れっぽいですから・・・!気をつけましょう。
先日、某宗教団体の方が私の自宅へ訪問してきました。面倒なので我が家は全部共産党ですと言ったところ全ての資料を引っ込めて帰っていきました。女房に話したところ「共産党さんが来たら我が家は公明党ですと言う」とのことなので、「馬鹿なことを、共産党の人達が我が家が公明党ですと言っても誰も信じないよ」と大笑いでした。
先日、私の知人の母親が介護施設に入所したところ、早速、某宗教団体の人たち数人が訪れてきて宗教政党への投票を依頼してきたそうです。投票日には投票所まで車で送り迎えしますので宜しくと言われたそうで、知人の母親はハイハイと答えておいたが投票日ににはどうしたらいいのかと問われたそうです。知人は投票所にみんなと一緒に連れて行ってもらって別の人の名前と政党を書けと言ったそうです。それが正解かもしれませんね!しかしこれは選挙違反ではないのでしょうかね!土曜日のガソリンスタンドを注意しないいけませんね。プロの間ではこのような事を「狩り出し」と言うそうですよ。
7月20日に埼玉県滑川町の国営武蔵丘陵森林公園へヤマユリの写真を撮りに行って来ました。この公園内には約3千株のヤマユリがあるそうです。今年のヤマユリは少々出来が悪いようですが綺麗に咲き始めていました。全体的に見頃は来週の前半でしょうか!公園内には5か所ほどのヤマユリの群生場所があります。現在は梅林の中のユリが奇麗でした。公園内の古鎌倉街道沿い等にもヤマユリは点在していますがまだ蕾が多く来週には咲きだすと思います。全体的に咲き始めから見頃始めのちょっと手前あたりでしょうか!ヤマユリは発芽から開花まで5年もかかり、1年ごとに1輪づつ花が増えると言われています。香はユリの女王と言われるだけ、香り高いです。
ユリは江戸時代末期にシーボルトによってギボウシや紫陽花などと日本原種の植物としてヨーロッパに持ち出され、ヨーロッパで園芸家の間で日本ブームを巻き起こしました。その後、明治6年のウィーン万国博覧会で日本のヤマユリが紹介され再び日本のユリがオリエンタルリリーとして脚光を浴びました。園芸種類として品種改良を重ねて現代のユリが出来てきました。ヤマユリは現在のオリエンタルリリーの原種の一つです。
万葉集から大舎人部千文(オオトネリベノチフミ)の歌。
筑波嶺の
早百合(さゆる)の花の
夜床(ゆとこ)にも
愛(かな)しけ妹そ
昼も愛しけ
(意)筑波山に咲くヤマユリのように、夜の床で愛しい妻は昼間も愛しい。
もう勝手にやって頂戴って感じの歌ですね!
P.S. 昨日、参議院選挙の期日前投票へ行って来ました。どこの政党と誰に投票したかは秘密です。当然、「嘘をつく政党」や「強きを助け弱きを挫く政党」それと「アメリカの尖兵として世界中の動乱地域へ自衛隊を派遣しようとする政党」には入れませんでした。ほとんど毎回不在者投票(期日前投票)をしています。最近は大変投票しやすくなってきています。投票日に投票に行けない可能性がある方は、是非とも期日前投票を行って国民としての権利と義務を果たして下さい。あなたの1票が日本を変えるかも知れません。
7月16日の那須烏山市のコテージガーデン・ステファニーの続きです。今年は桔梗の花が少ないように見受けられました。
古今集から紀友則の桔梗を詠った歌。
物名 きちかう(桔梗)
秋近(ちか)う
野はなりにけり
白露の
置ける草葉も
色変はりゆく
(意)涼しさの増してきた晩夏の野では、毎朝白露に濡れる草の葉も徐々に色が衰えてゆく
長く咲き続けてくれていた桔梗(きちかう)の花が時とともに萎れていく哀しさを詠った歌です。多分自分かあるいは自分と関係のあった人々の人生を詠っているのだと思います。
コテージガーデン・ステファニーのご近所です。合歓の木の場所は休耕田で、ここは源氏蛍が沢山舞う場所です。この周辺には山百合の群生地があったのですが、今年は壊滅状態です。台風の影響で川の水が増水しています。
7月16日台風が過ぎた後で栃木県那須烏山市のコテージガーデン・ステファニーへ行って来ました。5~6月の艶やかさはありませんが、シットリとして美しい花々が咲いていました。タチアオイ・ダリア・桔梗・女郎花(オミナエシ)など色々な花が綺麗に咲いていました。今年は少し花が早いですね!黄色いオミナエシは秋の七草です。
☆万葉集で山上憶良は秋野の花を詠む歌二首として
「秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数ふれば七種(ななくさ)の花」
「萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴(ふじばかま)朝顔の花」
と歌っています。朝顔はキキョウの事だと言われています。
☆古今集から遍昭の女郎花(オミナエシ)を詠った有名な歌。
名にめでて
折れるばかりぞ
女郎花(おみなへし)
われおちにきと
人にかたるな
(意)その名に興じて折り取ったばかりだ、オミナエシよ。私が墮落したと人に語るなよ。
女郎花は万葉時代から容姿の美しい女性に例えられた花です。オミナヘシあるいはオミナは女(おんな)の古語でしょうか?女郎(じょろう)は万葉・平安時代は高貴な貴族階級の女性に対しての敬語でした。オミナエシに女郎花の漢字を与えたのは平安時代からです。
遍昭の歌は、女郎花は美女の代名詞なので、それを愛でて手折り取ったばかりだが、僧としての私にはこれも女戒の罪だろうか。あいつは堕落したと人に話さないでくれ、と花に話しかける。花を折ることは女性との交情の例えとされているので、僧としての私は女戒を犯してしまったとおどけたのでしょう。お洒落な歌ですね!
昨夜、突然上手く文章の書き込みができなくなりました。文章を入力するととんでもない場所に飛んでしまいます。原因は分かりません。自然と直ると良いのですが!
今回の中越沖地震は日本政府のいい加減さを露呈してしまいました。被害を受けた方は本当にお気の毒ですが、それよりも刈羽原発に想定の2.5倍の揺れがあったとの報道がありました。聞いたときエェ~!と感じた人が多かったと思います。つまり奇跡的に原子炉に被害がなかったのは本当に幸いだったのです。一歩間違えていたらチャイナシンドロームです。日本の半分以上が刈羽原発の原子炉のメルトダウンで被爆してしまうところだったのです。あの程度の地震は地震国日本ではそんなに珍しいことではないと思います。恐ろしい話です。おまけに国民の全部を放射能汚染させてしまうかもしれない施設が消防車を1台も持っていなかった。消火活動の訓練もなされていたか本当に疑問です。それで大丈夫なの安倍総理大臣。パフォーマンスだけではダメですよ!自民党の財界寄りの姿勢が原子力政策に影響を与えたのではないのですか!おまけにボロボロ変な話が・・・。たとえば放射性廃棄物を入れたドラム缶100本が倒れうち数本の蓋が開いている。当然中身はこぼれているはずですね。おまけに排気から通常は検出されない気体状のヨウ素の放射性同位体や粒子状の放射性物質クロム51、コバルト60を検出した。これは何所から漏れてきたのか!危ない危ない!
これは選挙どころではありません。国民の健康と安全の問題だけでなく国際的にも唯一の被爆国日本のの大チョンボとして大問題になるところでした。こんなことでは北朝鮮の事は言えませんよ!選挙中でも国会は開けるはずです。徹底的に究明して欲しいです!日本は資源のない国です。原子力発電に頼るしかない国なのです。それだけに万全な配慮をしなければいけないのにこの体たらくです。やはり、財界寄りの自民党ではもうダメなのでしょうね。民主党も頼りがありませんが政権が代われば官僚がマトモニなるかも知れません。官僚がマトモニなればまだ日本は大丈夫です。
私は今週中に期日前投票に行ってきます。どの政党へ投票するかはまだ決めていませんが、どの政党へ投票してはいけないかは決めています。年金・税金・将来のアメリカの尖兵としての海外派兵それに今度の原発!企業への大幅減税と弱者への大増税をしている党はまやかしであることがはっきりしてきました。選挙が終われば消費税大増税。国の無駄使いは現状維持ではたまりませんね!よ~く考えて投票へ行ってきます。
昨日の地震で新潟・長野両県でかなりの被害が出ました。被災されて方々にお見舞いを申し上げます。私の別荘のある長野県信濃町も震度5強だったようです。隣町が震度6強だったそうです。場所が野尻湖を見下ろす山の上の方にあるので少々心配です。3年前の中越地震の時は丁度別荘に滞在中でしたが私は買い出し中の車の中でしたので気が付きませんでした。別荘に帰ると女房がワンちゃんを抱いて外に逃げ出していました。大揺れに揺れて船酔いを起こしそうだったそうです。今回も東関東自動車道路を走っている時で、突然、50Kmの交通規制が出てビックリしてラジオを付けて地震を知りました。
7月8日にワンちゃん達が運動不足気味なのでさいたま市の秋ヶ瀬公園に連れて行きました。2頭とも自然が大好きです。元気に散歩をしていました。特に後輩犬マリアンちゃんは興奮気味で先輩犬のルイ君はおっとりノンビリでした。秋ヶ瀬公園は自然が沢山残っています。ここは荒川の内堤防を荒川の水がオバーフローするとこの公園へ水を導き市内への浸水を防ぐのが目的です。幸いにしてここを破られたことはありませんが、二十数年前に一度外堤防決壊の寸前まで水が来たことがあり、秋ヶ瀬公園の木々も完全に水没し川面に何も見えなかったことがあります。それ以降スーパー堤防(大規模の大堤防で堤防の上に住宅街や商業ゾーン、高速道路、鉄道等を造る)の計画が浮かんでは消え、消えては浮かんできます。関係する旧建設省の河川局、道路局、住宅局、鉄道局の仲がそれぞれ悪くて縄張り争いのため実現は非常に難しいのです。いまはもう少し下流の新河岸川との合流地点の彩湖公園あたりなどと秋ヶ瀬公園に遊水機能を持たせ連動して東京都の隅田川流域を洪水から守っています。これらの機能がないと東京都は毎年のように水浸しになってしまいます。今の時代は各自治体が国と協力し合って地域住民を守っているのです。地味な事ですが非常に大事な事なのです。
☆古今集から武蔵野を詠った読み人知らずの歌。
紫の
ひともとゆゑに
武蔵野の
草はみながら
あはれとぞ見る
(意)ただ一本の紫草があればこそ、広い武蔵野に生えているすべての草が懐かしいものに見える。
☆古今集から在原業平の隅田川原で詠った名歌。伊勢物語から
名にしおはば
いざ言問(ことと)はむ
都鳥
わが思ふ人は
ありやなしやと
(意)都鳥よ、みやこという名前を付けられたのなら、一つ尋ねよう。都の私の恋人は今も丈夫で私の帰りを待っていてくれているのだろうか。
業平橋や言問通りの原典の歌。業平が二条天皇の后との悲恋のあげく東国へ放浪の旅に出たと言われている。この歌の恋人とは二条后の事であろうか。
関東地方への台風の最接近は今日の午後遅くでしょうかね。今は時々激しい雨が降ってきていますが風は大したことがありません。これからでしょうね!皆さんも台風の動きに気をつけて下さい。台風の通過した地方でも被害が出ているようです。被害を受けた方々へお見舞い申し上げます。
7月13日に川口市の川口グリーンセンターへ久しぶりに行って来ました。最初は栃木県の都賀町の「都賀の里」と「花之江の郷」へ台風の前に行く予定でしたが、お盆でお墓に迎えに行く時間が大幅に遅れ、またお墓が雑草だらけだったので清掃に追われ時間がかかったために急遽予定を変更して川口グリーンセンターへ行って来ました。天気予報どおり超大型台風が近づいてきていても雨が降らなくて幸いでした。
川口グリーンセンターのバラ園に夏バラが綺麗に咲いていました。夏のバラですので花弁が傷みやすくアップで撮れるバラが少なかったですがバラの香りが素晴らしかったです。夏の季節にこれだけのバラに出会えるとは想像もしていませんでした。
超大型台風接近中ですね。奄美の方々は大変だったでしょうね。お見舞い申し上げます。今回の台風は普通の台風とはスケールが違うようですので進路から離れていても被害が出るかも知れません。みなさん十分に注意をしてください。
6月24日ジョイフル本田新田店の後で埼玉県熊谷市の能護寺へ行って来ました。旧町名では妻沼町です。実家が熊谷の女房は能護寺を知りませんでした。このお寺はアジサイ寺として有名だったそうです。アジサイは見事でした。
10世紀後半に編集された和歌の手引書?の歌を集めた古今和歌六帖から読み人知らずの歌。
茜さす
昼はこちたし
あぢさゐの
花のよひらに
逢ひ見てしがな
(意)昼間に逢うと人目がうるさく噂にも立ちやすいので宵に密やかに逢いたいものだ。
「よひら」は紫陽花の花の事で宵(よひ)にも通じる。「よひら」はガクアジサイの顎が4枚なので「よひら」と呼びました。昔の人はこの様な歌で意味が通じ合ったのでしょうね。頭が良くないと馬鹿にされたでしょうね!私なんか「貴方なんか頭の悪い鈍感男、魅力も何もない人」と間違いなく言われてしまうでしょうね!やはり直球勝負はこの時代では馬鹿と思われていたのかも知れません。
古河市から埼玉県羽生市の羽生水郷公園への途中、埼玉大橋の橋の上から利根川を撮りました。この橋からの景色は川と言うより海の松島のように小さな島が川の中に浮かんでいます。橋のたもとの道の駅に車を停めて歩いて橋の真ん中まで行きました。大型トラックの交通量が多いところで橋が大きく上下に揺れるので写真を撮るのが大変でした。道の駅のホテイアオイはまだ咲いていません。まだまだ先のようです。また、大利根町の東隣町の栗橋町の利根川で大型淡水魚のハクレンの大ジャンプを見ることができます。もうそろそろジャンプが始まる頃です。ジャンプする場所は利根川橋と新幹線の間です。ハクレンは戦争中に中国から食料にするために輸入されたのですが日本人の口には合わなかったようです。大ジャンプの原因は未だに解明されていませんが、産卵に関係していることは確かなようです。大ジャンプの時に受精をするのでしょう。ハクレンは霞ヶ浦から利根川を遡上して栗橋町あたりで産卵します。受精卵は産卵されてから2日目で霞ヶ浦の北浦周辺に流れ込みます。霞ヶ浦の北浦周辺が孵化の場所です。大ジャンプが始まると必ずNHKのニュースに流れます。興味のある方は望遠レンズを持ってお出かけください。凄い迫力だそうです!
羽生水郷公園です。この公園内には「さいたま水族館」があります。川や池・沼に住む淡水魚の水族館で埼玉県にしか生息しない「ムサシトミヨ」など珍しい淡水魚の水族館です。また園内の宝蔵寺沼には日本で唯一で世界的にも数箇所しかない「ムジナモ」の自生地です。ムジナモとはモウセンゴケ科の食虫植物で根がなく水面に浮かんで葉の先に小さな虫などが止まると葉が閉じて捕食します。そのスピードは1/100秒とも言われています。そして羽生市でのムジナモの発見者は、田山花袋の小説『田舎教師』の中で、主人公の弥勒高等小学校の同僚「関さん」で登場する速水義憲(旧姓関根)氏でした。私はこの小説は読んだ事がありません。速水氏は北埼玉地方では有名な教育者だったそうです。
宝蔵寺沼の一部にはホテイアオイが咲き始めていました。ここは早いですね!ムジナモは保護が厚いのでそばには寄れませんので写真は撮れません。
写真はホテイアオイ、ガマ、アサザ、ホザキシモツケ、ミズカンナ、落羽松(ラクウショウ)別名ヌマスギで気根とも言います、半夏生、ねむの木とノウゼンカズラです。2羽の鳥は何なのでしょう?ずーっと仲良くしていました。種類が違う鷺だと思いますが!
7月7日に茨城県古河市の古河総合公園の蓮を撮りに行って来ました。ここの蓮は千葉市で発見された約2000年前の古代蓮の大賀蓮で千葉より分けてもらったそうです。古代蓮と言っても行田の行田蓮とは少し違うようです。大賀蓮は少し白っぽく花弁の先のピンクがやや色濃くなります。行田の蓮はピンクの色が濃く艶やかで、やや大型です。使用カメラとレンズはE-510とED14-42mm、ED40-150mm、ED50-200mmです。
古河総合公園は室町時代に古河公方の足利成氏が居住した鴻巣御所跡です。鎌倉公方として足利尊氏の三男足利基氏を関東の支配者として派遣したのですが、4代目の足利持氏が征夷大将軍になる夢を持ち関東地方は大混乱となりました。関東管領家の上杉氏の内訌もありました。結果、持氏の反乱は失敗し幕府に降服したのですが自害させられ、5代目に持氏の子供の成氏が鎌倉公方に任じられたのですが再び反乱をおこし破れて、鎌倉を脱出し古河に本拠を移し古河公方とよばれました。古河は水上交通の要衝で守りやすく攻めやすい地形で、北関東・東関東の豪族は下野国(宇都宮氏・小山氏・那須氏等)と下総国(結城氏・千葉氏等)の大豪族に古河公方の支持者が多く、関東の約半分近くを押さえていました。足利成氏は渡良瀬の下河辺氏の館を改修し古河城を築き古河公方の城としました。その後、室町幕府と和睦と戦を繰り返し100年以上も関東地方に平和な時代は長く続きませんでした。空席になった鎌倉公方として足利政知が京都から下って来ましたが、複雑な政情のため鎌倉に入ることができず伊豆国堀越(韮山町)に館を作り居住しました。これが堀越公方と呼ばれ、関東に2人の公方が同時に存在することになりました。堀越公方は足利茶々丸の時に北条早雲に攻め滅ぼされてしまいました。この辺の関東の大動乱の歴史については複雑怪奇で訳が分かりません。歴史に詳しいつもりの私も難しくって頭をひねります!この地は古河公方が古河城を築城して移るまで数年間の古河公方の本拠地でした。古河城に移転後も鴻巣御所は存続していたようです。
古河公方の直系の娘で古河城主であった足利氏姫が豊臣秀吉の命により足利の一族の足利国朝(小弓公方・・・古河公方の分家)の正室となり、室町幕府を開いた足利本家を継ぎ喜連川藩を立藩しました。それにつれて古河公方の家臣団も喜連川(栃木県)に移りました。石高は5千石程度でしたが、藩として扱われ、江戸幕府の中で唯一の1万石以下での大名となり明治に至り子爵として続きました。家格は10万石並で御三家と同席を許され、大名としては最高の御所号を許された別格大名でした。
考えれば考えるほど複雑な時代で、2つに分裂した管領家の扇谷上杉家を一人で盛りたてていた宿老だった和歌でも有名な太田道灌も主君に謀殺されるほどおかしく不思議な時代でした。公方を補佐する関東管領上杉家も山内・扇谷上杉に分裂し、その家臣団もそれぞれ分裂して、お互いに攻め合い手を結びあい、訳がわからない時代でした。
最後に、7日の日に大利根町の埼玉大橋の道の駅のホテイアオイを見てきましたが、まだ咲いていませんでした。羽生市の羽生水郷公園の池のホテイアオイは咲き始めました。
今日は七夕ですね。本来は旧暦の7月7日の行事を新暦7月7日に行うのは少々問題があるのかもしれません。新暦の晴天確率は30%、旧暦では47%だそうです。旧暦の7月7日はほとんどが立秋以降になるので七夕は秋の季語です。また旧暦7日は上弦の月となり天の川を渡る舟に見立てるようです。日本での七夕は地方によって新暦・旧暦・新暦の一月遅れの3通りがあるようです。我が家の近所は新暦です。
6月5日に埼玉県行田市の古代蓮の里へ行って来ました。現地に着くのが9時近くなってしまいましたが蓮の花は綺麗でした。蓮の花の寿命は4日間です。早朝花が開き昼前には蕾んでしまいます。行田の古代蓮は大賀蓮とは違うのでしょうか?大賀蓮のほうが古そうですね。大賀蓮は同時に発掘された遺物から約2000年前と言われています。行田の古代蓮は1390年前±65年との研究結果が発表されています。行田の古代蓮は昭和46年にゴミ焼却施設の造成工事で地下に眠っていた蓮の種が自然に発芽しました。昭和48年に造成工事で出来た池に蓮の葉が浮かび大騒ぎになったそうです。古代蓮は行田蓮と呼ばれ、上品な濃いピンクの花で大型です。色は素晴らしい自然の色です。
古今集の秋歌上から紀友則の歌。
天の川
浅瀬しら波
たどりつつ
渡りはてねば
明けぞしにける
(意)天の川の浅瀬を知らないで、白波をたどりながら渡り切らないでいると、夜が明けてしまった。
「白波」と「知らな」とは掛け言葉。彦星が織女のいる対岸に渡る浅瀬を知らなくて、探しているうちに夜が明けてしまったと解釈するのか、あるいは逢えても思いが充ち足りないうちに夜が明けて別れなければならないことを歌ったとの説もあるようです。
もう一つ古今集秋歌上から読み人知らず。
恋ひ恋ひて
逢ふ夜はこよひ
天の川
霧たちわたり
あけずもあらなむ
(意)1年中恋い慕ってやっと今夜逢えるのだ。霧よ、天の川にいっぱいに立ちこめて今夜が永遠に明けないようにしてほしい。
昨夜、テレビでロバート・ジョゼフ核軍縮担当米国特使(前国務次官)の発言を見て、ビックリ仰天!久間前国防大臣のしかたがない発言を受けてのコメントなのでしょうか!ここで彼の発言を・・・・「原爆の使用が終戦をもたらし、連合国側の数十万単位の人命だけでなく、文字通り何百万人もの日本人の命を救ったという点では、ほとんどの歴史家の見解は一致する」・・・・との、とんでも発言です。おまけに官房長官と安倍総理のコメントも放送されていて承知していないの様な逃げの発言でした。このような重大な発言がアメリカ政府高官から発せられて十数時間たっても日本政府が承知をしていないとは?馬鹿か!と言いたいです。日本の政府は安倍自民党の政府ではありません。日本政府は日本国民の政府なのです。日本にとって平和憲法と唯一の被爆国として世界に声明を発する必要があるのではないでしょうか!原爆の問題ばかりではなく、東京大空襲も人道に対する罪なのではないでしょうか。無差別にかつ非戦闘員の逃げ道を塞ぐ様にして焼夷弾を円形にばら撒き、円内の非戦闘員を何十万人も焼殺したのは誰なのでしょうか!日本だけ裁かれるのはおかしいでしょう。サンフランシスコ講和条約に署名したことでアメリカの戦争責任を追及できないとの判断があります。確かにその通りかもしれません。しかし、原爆と東京大空襲や地方都市への無差別爆撃は明らかにシュネーブ条約違反です。
久間防衛大臣の発言は軽率な不適切発言で、辞任に際しても反省の意識をほとんど見せなかったのは批判非難されて当然です。今回のジョセフ発言は加害者が暴力の正当性を主張すものであり、日本政府は迅速に謝罪要求と発言の撤回を強力に求めないとこの発言を肯定したことになります。この件は与党野党の問題ではなく日本の独立国としての存続にかかわる問題であると思います。
日本はアメリカとの軍事協力を強化するために憲法9条を捨てようとし、世界に対して被爆国の怒りを放棄すれば日本には何も残りません。ただアメリカの隷属国としてアメリカの尖兵としてアメリカの戦争に巻き込まれ、結果、世界から孤立します。アメリカは中国の航空母艦建造に協力をするとのコメントが発せられました。アメリカを信用して大丈夫なのでしょうか!日本がアメリカから捨て去られる日が近いかもしれませんよ!アメリカで民主党の大統領が誕生すれば可能性はかなり高くなります。冗談で済む話ならばいいのですが!
今回は右も左もありません。改憲派も護憲派も一致してアメリカに抗議すべきです。安倍総理はここで行動を起こさなければ本当の馬鹿であることを世界に証明することになります。安倍総理は逃げるでしょうがね!
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