« 見沼の秋 | トップページ | 北鎌倉の秋2 東慶寺 »

2006年12月13日 (水)

大宮氷川神社十日市

12/10に大宮の氷川さんの大湯祭(十日市)へ行って来ました。16時半過ぎには一の鳥居を越えたのですが二の鳥居あたりから混み始め、大混雑になってしまいました。後ろから押されてカメラを構えられる状態ではありませんでした。屋台は参道だけではなく脇道にまで出ていました。屋台の数は埼玉県一番の多さだと思います。さすがに武蔵の一ノ宮だけのことはあります。

昔、私の叔父が親戚のよしみで氷川神社宮司の東角井家の蔵を開ける時に立ち会ったそうです。蔵の中に酒の薦があり、みんなで開けて飲んでみようと言う話になり、開けてみたそうですが・・・・・!中身は底のほうに黒茶の液体が少々残っていたそうです。臭いが凄く、誰も飲むと言う勇気のある人はいなかったそうです。

昨日は浦和の調宮(つきのみや)神社の十二日町でした。残念ながら昨夜は大宮で忘年会なので行けませんでした。調宮神社も古い神社で大宮の氷川神社より古いかもしれません。大昔はこのあたりまで海岸線があった様で、その頃から続いている神社とも言われています。名前からは大和朝廷の租庸調の倉庫があったのではないかと思います。その傍証の一つにこの神社には鳥居がありません。荷物の出し入れに邪魔だったのかも知れませんね!不思議な神社です。

埼玉県内には古い神社が沢山あります。以前、高麗神社の先代の宮司の弟さんが半年ばかり仕事の手伝いで来てくれた事がありました。その時に色々話を聞きました。高麗家には一子相伝の口伝があるそうで、弟には内容は教えてもらえないそうです。口伝が途絶えた時はとの質問に高麗さんは笑って答えてくれませんでした。どんな口伝なのか興味深々です。高麗家は日本へ亡命してきて武蔵野国高麗郡を朝廷から賜った高句麗の王子・高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)を高麗明神として祭った神社で現在の宮司で59代です。武蔵国は朝鮮半島の戦乱を逃れてきた人達の安住の地として大和朝廷から与えられた土地なのかも知れません。大和朝廷は避難民より早く朝鮮から日本へ移住してきた仲間だったのでしょう。埼玉県には朝鮮関係の地名が沢山残っています。私の祖父が2代目の弁護士を継ぐ前に朝鮮で裁判官をしていました。祖父が桶川・上尾には古代南朝鮮で使われていた単語が残っていると話していたそうです。

Ec108051 Ec108054 Ec108059 Ec108063 Ec108065 Ec108072 Ec108073 Ec108077 Ec108081 Ec108104 Ec108108 Ec108109

Ec108119 懐かしい昔を思い出しますね。

Ec108117 参道に面した有名な団子屋さんです。

Ec108121 参道に面しているのですが前の屋台が邪魔になり人が通らない御煎餅屋さんです。結構美味しいです。

« 見沼の秋 | トップページ | 北鎌倉の秋2 東慶寺 »

コメント

おはようございます(^^)
うわぁ〜すごい人ですね(^^;
私はこういう場所へは行ったことがありませんが
ちょっと、興味があります。

>埼玉県には朝鮮関係の地名が沢山残っています
そういえば、そう言う名前が多いですね。
なるほどっと思いました(^o^)b

chocorin2さん、こんにちは。
とにかく凄い人でした!私も久しぶりに十日町に行きました。十日市が正式略称のようですが、我々地元の人達は十日町と言っています。昨夜も大宮の飲み屋でこの話が出て、十日町とみんな言っていました!
以前、出雲の神主家の一族の人が司法修習生で兄の法律事務所に来たことがありました。その時その人が言うに・・・出雲には蝦夷言葉の地名が沢山残っている・・・

こんばんは
 すごい賑わいですね!!
 この飾り物は、「えべっさん」の飾り物と同じようなものですか?
 「えべっさん」の飾り物は商売繁盛となるようにお店等に飾ります。
 高句麗の王子・高麗王若光を高麗明神として祭った神社とのこと、韓国ドラマが大好きな私としては、興味あります。
 大和朝廷も朝鮮半島から渡って来たのでしょうか?
 

しげさん こんばんは~♬
大宮・・・と 聞いて
なんだか嬉しくなりました
ひょんなことから私の家族が そちらへ・・・
それで 頻繁に 行くことに・・
全く知らない街でしたが
急激に 親しみを覚えています
こんなところがあるのですね
先週も大宮行ってきました
一応カメラ持っていきましたが 一枚も撮れず・・・笑
このような迫力あるお写真の数々・・・すばらしいですね
人の入るフォト。。。憧れます

ささゆりさん、こんばんは。
熊手です。店や部屋の中に一年間飾って毎年買い換えるものです。えべっさんと同じものだと思います。縁起物ですね。
高麗神社は埼玉県日高市にある神社で立身出世の神様とも言われています。
大和朝廷は間違いなく南朝鮮から渡って来た豪族だったと思います。朝鮮からは動乱を逃れて沢山の人々が何十回にも分かれて日本に逃れてきたのでしょう。それが日本神話の神武天皇の話や、大国主命の話なのでしょう。最後の方に逃れてきたのが高麗王若光達で、関西地方には分け与える土地がなくて未開の土地の関東に移されたのだと思います。大和朝廷は武烈天皇の時に一度途切れたのですが北陸地方越の国の豪族継体天皇が内乱を征して大和に入ったのだと思います。当然、婿養子として後継天皇になったのでしょうが今の天皇家はこの系統です。越の国は渤海国(北朝鮮・満州)の使節が大和に入る時に北陸から近江経由で大和に入った事から継体天皇は渤海国と同族かも知れませんね。渤海国の歴史は残っていないため良く分かりませんが高句麗の別種と言われています。古代の朝鮮と日本は全てがグルグルと渦を巻いている様な大混乱だったのでしょう。だから任那の日本府を守るため朝鮮に出兵したのでしょうか。大昔のことで分からないことばかりです。こんなところで歴史の授業は終ります。

vertさん、こんばんは。
大宮にご縁があるのですね!先週も大宮に!そのうちお会いすることがあるかもしれませんね。

こんばんは。
ほんとに凄い人ですね。
年末のアメ横のような感じです。
歴史のお話、勉強になりました。

シゲさん、こんばんわ。
又、深夜の訪問者になってしまいました。

歴史のお勉強させていただきました!
高麗はそう言う所だったのですね。
興味倍増です!

十日市、初めて知りました。
お酉様のような賑わいですね。
17日~19日、羽子板市です。
17日に出かけます。又、浅草で美味しそうな所へ行こうと思ってます!

↑vert さん、大宮に出現!ニュースです。

photobananasさん、おはようございます。
あまりの人出に私も人疲れしてしまいました。
歴史の勉強は面白いです!

紅さん、おはようございます。
埼玉には他に秩父神社があります。これも古い神社です。大昔は関東平野は無人に近い状態だったのでしょう。割合に開けていたのは秩父から比企丘陵地帯で武蔵の平家(秩父氏等)や武蔵七党は殆どこの地帯で栄えていました。鎌倉古道の街道も比企から八王子方面鎌倉へ抜けていました。この道は主要道路で明治の中ごろまで絹の道でした。群馬・埼玉の絹はこの道を使って横浜から世界へ輸出されていました。
浦和市の浦は海の浦です。東京都は高台が島のように残り他は殆どが海の底だったのでしょう。埼玉県も南の方は湿地帯で海岸線が入り込んでいたのでしょうね。浦和市には貝塚が結構あります。その貝は川の貝ではなく海の貝です。私のブログにアップした別所沼は昔は現在の数十倍の大きさだったようです。別所沼は当時の湿地帯の名残ですね。他に浦和市内には牧の地名の土地が多数あります。昔は戦闘用の馬を飼っていたのでしょう。調べれば調べるほど歴史は面白いですよ。
また歴史の勉強をしてしまいました。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/118343/4518335

この記事へのトラックバック一覧です: 大宮氷川神社十日市:

» 大宮氷川神社:大湯祭 十日市(とおかまち)に行く! [比良探検隊閑話]
昨日は冷たい雨であったが、今日は朝から晴れている。 12月10日は、旧大宮市のビッグイベント、氷川神社の大湯祭、十日市(とおかまち)の日だ。私が子供のころは学校も半休になるくらいの大宮の重要行事。 子供ながらに、年の瀬を感じる楽しいイベントであった。 日曜ということもあり、久しぶりに昼からチャリと電車で出かけることにした。 生まれ育った実家からは歩いて行けたのに。。。 相変らず、氷川参道には屋台が立ち�... [続きを読む]

« 見沼の秋 | トップページ | 北鎌倉の秋2 東慶寺 »

2013年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

最近のトラックバック

無料ブログはココログ